強姦殺人以上に許されざる業

理由は別に、子供をあやめる、というのは強姦殺人以上に許せない業だ、と言い切っておこう。


私は、本質悪である偽善と裏切り以外でそんなに目くじらを立てることはない。でも、子殺しは別。卑劣の極みだ。


畠山鈴香」にかんする、魔女狩り、というかさらし者報道のなかで、やれ虐待のやれいじめのやれ男の・・・といったゴシップネタを、多々見た。
これらは、我々がネタにしようと思えば容易い。
しかしながら、人と同じことをしてもつまらないので、彼女のエッセンシャルな部分に言及してみたく思う。
データは、各種記事による。


当然ながら、彼女のあらを各種報道の多くはクローズアップしているわけだが、
カップめんしかつくらないのそうじしないの、といったくだりが、そのとおりだとするなら、「畠山鈴香」は、ぜんぜん親にしつけられずに育った、ということになる。
それでもって、やれパチンコ三昧のヤリマンのと、エピキュリアン決め込んでいたとするなら、これまた親が放蕩三昧で、
「子は親の姿を見て・・・」もしくは
「子は育てたように育つ」。
ならばまともな母親たれ、というほうが無理。
彼女を非難すること自体、筋違いとさえいえようか。
もっといえば、あやめた長女は、自宅に連れ込んだ男とまぐわう間、季節を問わず外に出したというが、これは、「畠山鈴香」に言わせれば、「思いやり」だったのかもしれない。
「親の醜いさまを見せたくない、私は幼少のころ、いつも親の性交を見せられていたんだから」
また、いかなエピキュリアンでも、「性教育」と開き直れなかったのだろう。


彼女に関して、もうひとつクローズアップされていた部分は、「いじめ」に遭っていたこと。
秋田の高校の文集でも、心無い書き込みが多々あったようだ。
ヒルささえ漂う表情には、そんなことも影響しているのではなかろうか。
聞いて驚いたことに、「畠山鈴香」は本が好きだそうな。
でも、幼少期に、誰も彼女の心にいなければ、「本」しか友達にはなり得ないわけで・・・
亀井勝一郎曰く、
「著者に共感を得た時、著者は師となり読者は弟子となる」
でも、かような本が、彼女には見つからなかったのだろう。その点で考えると、私はまだましなのかもしれない。
_「君の可能性」読んでなければ今頃この世にいないか。私を憎んでいるねらー諸君、残念でしたね。_
ならば、快楽にひた走っても無理はない、いや自然かもしれない。
ではなぜ長女を殺したか、は東里に譲ろうと思う。
ひょっとしたら、ローテ破って再度、書くかもしれない。
kimitoki