小説は、事実の焼き直しではない

このことに、気づいたのも「凍てついた____」を書いていた頃。
実体験に、固有名詞だけ架空のものを与えて、「小説」とするのは間違い。
もっともそれを、リアル、リアル、とありがたがるのは、超低レベルな「民主文学」のお歴々だけど。
小説においては、実体験は、イメージのソースでしかない。
ただ、私の「実体験」は、信じた左翼仲間に裏切られて、それがもとで左翼を去るという、あまりに哀しい、代物だった。
昨日私は、似非仲間、という表現を使ったが、これでもまだかわいらしいくらい、と思っている。
_普段はやれ人を変える世の中を変える、とぬかしている者が、偽善を働いたうえで平気の平左で仲間を裏切るのだから。そのせいで私は、人生がめちゃくちゃになった_
その偽善者(この「称号」こそが、似つかわしい)に私は、「坪根明子」という呼称を与えた。
実在の偽善者の、名前を一部もじった。

ちなみにその偽善者は、「仲間」は平気で地獄に叩き落しておいて、自身は大阪にとついで、幸せに暮らしているそうだ。
明日以降、その偽善者の、いくばくかの「リアル」を、曝け出そう。


つづく
kimitoki