T井R子について

白々しい伏字だけど、これで。


私が民青に入ったのは、1986年の終わり。
T井については、87年の、民青県委員会が主催する海祭りみたいなのがあって、そのときに初めて、会った気がする。もしかしなくて、もっと前に会っていたかもしれないが、記憶が不鮮明なため、割愛。
そんなに、記憶に残る女でなかった。むしろ、その時は雨で、来場していた他地区の女の子がずぶぬれで、透けたブラジャーのほうが、記憶に残り、また、T井の友人だった女の胸チラのほうが、よほど脳裏にこびりついていたくらいだ。
ではなぜそんな印象の薄い女が、いかに私の人生を歪めたかというと、一言で、前述の大学の「合格通知」だった。それが、1989年の話。そう、昭和天皇が死んだ年のことだ。
共通一次で惨敗し、その年の進学をほぼあきらめた私だったが、気慰みで、「せめて合格通知だけでも」と受験して、それを受け取り、当時の共産党の上役に報告した、そのことをT井がまた聞きしたのが、私の、ただでさえ不幸な上に望みのない人生を、絶望的なものにしてくれた、はじまりだった。
なぜ報告したかというと、その上役O氏は、私に田川に残ってほしがっていた。ところが私は、ありとあらゆる意味で田川なんてくそくらえで、大学に行けようが行けまいが、出て行きたくてしょうがなかった。
「大学に行くのだからしょうがない」
そう思わせるためだった。しかしながら、ついてない者は、必ず何かが、裏目に出たり、悪いほうに転ぶようにできていた_____
それともう幾つか。
左翼に拘束されるのを、嫌ったせいでもあった。また、出稼ぎがてらさるのこしかけ程度にしかいない地域に、ちょこざいな滞在して、風のように消えたところで、そこの地区の、左翼の人々に申し訳ない気がした。そんな思いもあって「大学への入学はあきらめていた」ことは、田川にいた左翼の連中には極力伏せた。赤い大学に行くもの、と思い込んでもらうことにした。
ただ、その時の、私が前述の大学に行くものと思い込んでるT井に「迷惑かかるかもしれん」などと思う甘さといえば甘さ、仏心といえば仏心ゆえ、彼女に、「いけないかもしれないから」と漏らしたことが、今日の不幸の、元凶となった。
つづく
kimitoki