T井R子について15

紡績会社にいたのは、在籍期間四ヶ月で、盆休みに乗じてそのままやめたから、実質的に三ヶ月そこらだった。
ただ、この岐阜にいた数ヶ月が、以後の人生をこんにちに続く「幸も不幸もない」ものとする、元凶となった。


今回は、当地の民青との係わり合いについて。


本題に入る前に、この間のT井の行いに触れておこう。
彼女からは、手紙が一通来ただけだった。忌まわしさの余り、後年焼き捨てたため、いかな代物かお見せできないのは残念だが、かえるの鳴き声がどうのこうのと書いた、どうでもいい内容より、やさしげなものを演出した隷書じみた字体が、記憶に残っている。そんな手紙でも、一日千秋の思いで待った。
また、彼女が、その手紙で、「名古屋の友人の結婚式に行くから、ついでに会わない?」という旨のことをしたためていた。これに欣喜して、安くない電話代を使って、テレカの度数を気にしながら彼女に電話かける。それが確か、天安門事件の1週間前だった。でもって、再会の日取りを、天安門の一日前に設定した。しかし、その直前、T井はドタキャンした。前日の2日に電話確認した時だった。落胆したのはいうまでもない。気持たせこいて、あとでどすん!このヒポクリットのパターンではあった。
私は彼女や、生育地にいたころの民青の「仲間」だった者たちにも、何通となく手紙を書いたが、返事らしい返事はこれっきり。寂しいものだった。


ただ、「職場」を含めた寂しさの埋め合わせを、当地の民青の人々に求めていたのは、確かだった。
彼らは概して共産党を盲信していたが、奸ねいかつ偽善の徒だったT井やでたらめでいい加減な「地区委員長」だったHを思えば、人間の質は格段よかった。良くも悪くも素朴だった。
そんな彼らとの最初のコンタクトは、GWの終わり、やはり喫茶店<岐阜駅近く>で、当地の地区委員長だったM氏と少し話してから、オートバイを事務所からは離れた場所に駐輪するようにいわれ、共産党のポスターだらけだった「県委員会」の建物に、案内せられた。
kimitoki
まだまだつづく