T井R子について 30

記事の前に。今年もはや3分の1が過ぎた。
このブログは恐らく今月で更新打ち切り。
光陰矢のごとし、の感がある。書き始めて、5年近くが経った。
ついでに。今日はメーデー。100年以上前の労働者が、こんにちではほぼ当たり前の権利を獲得するために、血と汗と涙を流した日だ。それを馬鹿にしている(としか思えない)「連合」のメーデーに対する位置づけと扱いには、心底業腹。


閑話休題
N市に行ったところで、100%間違いなく採用されるとは限らなかった。もししくじったら、生育地に戻って、また何か職を探そう、とさえ思っていた。
しかし、A県の半島部にある、事務局員が2人しかいなかったH民商は、私を人手不足ゆえか、採用してくれた。
赤い大学に通いながらの勤務はもとより、学費および入学金も貸そう、そしてねぐらと食事くらいは保障する、とさえ事務局長は言った。
これらの話しを聞けば、「完全勝利」とおもうだろう?実際その通り。
ただし、進学云々に関しては、完全に選択肢がなくなった。
無論、赤い大学のことに関してはT井に対する「誠」があった。
面談が終わって程なく、私は岐阜に行った。左翼の人々に挨拶するためだ。
共産党のO氏が、はじめて党の事務所を来訪することを許可した。それでも、言うことは言う人だったので、
「元の職場に挨拶するのは最低限の常識だぞ」
しかしながら、ろくでもなかった紡績会社に挨拶することはなかった。
民青の人々が送迎会をやってくれて、ついでに事務所に一泊させてもらい、翌朝、G民商の、Nらに挨拶に行った。
「勉強にはなるよ」
Nはしゃーしゃーと言った。人の人生歪めといて。。。と言いたくもなるが、それは間違いではなかった。おかげで世慣れた。
H民商に赴任した私は、そこの地の人々に厄介をかけながら、暮らすこととなった。
赴任のあくる日に、勤めの後で、T井に手紙を書いた。
kimitoki